建設業が農業を始める地として選んだのは、山あいの集落市野々。その市野々で長年にわたり米づくりを営んできた齊藤義昭さんを師として、米づくりを学びました。今の私たちの米づくりの基礎をつくってくれた齊藤さんに、農業にかけた人生、市野々での米づくり、そしてふるさと市野々への想いについて、お話しを伺いました。
市野々で、百姓として生きていくと決めた
――改めて、市野々で、農業に取り組もうと決められたきっかけについて教えてください。
サラリーマンの親父がピシッとした格好で勤めに出てるかたわらで、おふくろとおばあさんたちがね、田んぼの中で泥だらけになって仕事してたんだ。それ見てて、女の人だけ泥だらけにするのは気が引けるっちゅうか。一緒に泥だらけになればいいかなと思って、農業やる気になってね。あと、こんな山間地で新しく農業する人がおらん。俺がひとつ、百姓やってやろうかなと。へそ曲がりなんですよ(笑)。
それでも生活は苦しいから、中学卒業して10年ぐらいは冬場に出稼ぎ行かんならんかった。名古屋の染物工場へ6年ぐらい行ったかな。生きるためにいろいろやった。15歳から65歳まで、米づくりはもちろん、林の中で豚とか牛飼ったり、小遣い欲しさに魚の振り売りまでやった。魚担いで集落巡って「こんちわー」って。その後も、「市野々の特産」って認めてもらえるような何かつくりたいなって、いろいろ挑戦したね。
――米づくりに専念するために、どんな挑戦をされたんですか?
生活できるくらいは米つくらんといけんから、田んぼを広げたいと思ってたね。そしたら、農業普及センターの普及課長さんがね「齊藤くん、本気で百姓やるなら圃場整備したらどうだ」って声かけてくれてね。小さい田んぼを整理して、農機も入りやすくきちんと区画された大きい田んぼに整備していくってことね。ぜひやりたいと思って、集落全部を1978年から10年かけて圃場整備したんさ。
「整備に同意してくれ」って呼びかける中では、やっぱりいろんな意見があって。「借金してまでして圃場整備しようと思わんから、田んぼお前にやるそい(売ってやる)」って言われては田んぼ買い集めて整備した。田んぼ広げたいと思ってたけど、大分借金したねぇ(笑)。
市野々は安心・安全な米づくりに最高の環境
――齊藤さんは、当時どんなお米をつくろうと思われましたか?
それは初めから決まっててね。「安心・安全な食を 子や孫へ」っていう。それが俺のキャッチフレーズ。名刺にも書いてみんなに配ってた。
化成肥料とか農薬たくさん使って管理したら、米の量は今の倍ぐらい取れるかもしれん。昔は特に、誰もが「1粒でも多く」っていう方針だったしね。でも、俺は「安心・安全」が最優先。農法とかは時代に合わせて変わって当たり前だけど、「安心・安全」だけは、あぐりいといがわさんにも受け継いでもらいたいなと思ってる。できるだけ、自然に近い栽培方法で育ててもらいたいな。
――齊藤さんの考える、美味しい米、理想の味ってどんなものですか。
食の好みは十人十色で、旨いって言ってくれる人が多くいてくれたらそれでいいと思ってた。
ただ、気温とか、旨い米づくりに必要な条件はあるんだよね。昔は、平地でも米づくりしてたんだけど気温が上がって、山(市野々)の米と比べたっちゃどうにも味が違う。平地は肥沃で米もたくさんとれるんだけん、水がよくない。田んぼに下水が入ると思うと不安になって、市野々で重点的につくることにしたんさ。山へ来るほど水も空気もきれい。お客さんに自信持って説明できると思ってね。
――お米の直販に取り組んだ時期も、齊藤さんすごく早かったんですよね。
周りの人は、とれた米みんな農協へ出しとったね。だけん、俺は戦中戦後の食糧難の時代に育ったから、自分で育てた米は大事に扱いたかった。まずは、家族を食わすために米つくる。その次は、俺の米を喜んで食べてくれるお客さんのためにつくる。それが、俺が農業する根本の気持ち。
だから、農協通さず、自分たちの米を「ほしい」って選んでくれるお客さんに直接届けることが、米を大事にすることだと思った。
直販すると、お客様はよそで買うよりやすいし、俺の方も儲かって田んぼを増やしていける。最初は、俺の米を地元と関西の企業さんがお歳暮とかの贈答品に使ってくれた。そしたら口コミが広がって、お客さんが四国以外全国にできてね。
――齊藤さんの「いのちをはぐくむ米」の価値をわかってくださるお客さまができたんですね。でも直販、難しくなかったですか? 送付とか会計とか手間もかかるし。
農協からは、「齊藤くん、金の回収に必ずつまずくぞ。全部、農協まかせときゃいいんだわ」って、圧力かかってね(笑)。だけん、お金払ってもらえんことなんか一度もなかった。
逆に米が値上がりしてたとき、「もう少し値段上げたらどうですか」って心配してくれるお客さんもたくさんいた。「ずっとこの米食べたいし、無理に値段据え置きにして倒産したら困る」って。本当うれしかったね。ありがたいなと思ってね。
本気なら、山間部の農業ほど面白いものはない
――谷村建設(あぐりいといがわの親会社)から、「農業に取り組みたい」と話があったとき、率直にどう思われましたか?
本音はね、建設会社が農業に参入なんて反対だった。あぐりいといがわさんがどのくらい農業に熱意があって、どんな農業したいんかも、わからんかったしね。
だけどもよく考えたら、企業の力を借りんと市野々、消滅するなって。俺のあと、誰もこの広さの田んぼ継いでくれる人いない。ちょうど、農業から身を引こうと思ったタイミングで声かかったから、これも縁かなぁってね。
――齊藤さんからは平地の田んぼではなく、「本気なら、市野々でやってみるか」と打診されたことを覚えています。
うん。本気なら、自分にできることは何でも手伝って、一番守りたかった市野々を託そうと思った。
俺ね、米づくりだけで食えんとき豚飼うって決めて、富山へ研修に行ったんさ。研修先の社長と雑談してて「うちの集落は米つくって、林業して、出稼ぎして暮らしとる」って話した。そしたら、「俺は豚飼うときに、家屋敷全部担保にして借金して始めた。命がけで始めたんだ。だけどお前さんたちは、米ダメなら出稼ぎすりゃええと……そんなことしとったら駄目なんだ」って呆れたように言われて。
その言葉が響いてね。いろんなことを手掛けるのも生きる道。だけど、それぞれ本気でかからんとダメだぞと教えてくれたんだと思う。あの言葉は一生忘れんね。
――その言葉が、あぐりいといがわに市野々を託してくださった齊藤さんの姿勢につながってくるんですね。
そうね。あと、これもへそ曲がりって言われるけど、俺は、市野々みたいな山ん中の集落で農業する面白さは、平地の何倍もあるよって思ってた。山なら思いついたことをすぐに実践できる。俺はそこに惚れたわけ。旨い米つくれるし、豚飼ったら林間放牧だってできるし、湧き水でイワナでもヤマメでも飼ってもいいしね。
市野々という集落を残すために、農業を続けてきた
――改めて、市野々という集落を残したいという齊藤さんの想いの強さを感じます。
一年でも長く続けていきたいね。ここで生まれた人がこの世に居る間ぐらいは、ふるさと守りたい。俺も、目の黒いうちはここに居りたいなって思っとる。
でも今、市野々には後期高齢者が4人暮らしてるだけ。あとは、米づくりしに来てくれるワークセンターとあぐりいといがわのスタッフさん、個人で家庭菜園持ってて里から通ってる人がいるくらい。農業する人、住む人がいなくなったら、集落はあっという間に荒れる。
田んぼや農道の中に家があるような集落だから、草刈りや用水路の掃除なんかできなくなってインフラとして機能しなくなったら生活に支障きたすわね。草だらけで道とおれんかったり、用水路から水あふれたり、田んぼも水溜めれんくなったりね。こういう集落じゃぁ、農業用の施設って暮らしのためにも大事なんだわ。
――確かにそうですね。では、あぐりいといがわのお客さまにも見せたい、市野々の風景はありますか?
圃場整備でできた、段々畑ならぬ段々田んぼね。その段々の向こうには日本海が見える。天気がいい日は、能登半島まで見渡せる。この景色はぜひいつか見てもらいたい。「いちのまい」は、そういう風景の中でとれた米ですよって、知ってもらえたらいいね。
あぐりいといがわに託す「心」を入れた米づくり
――農業は、センスや人間の勘が想像以上に重要だと実感しています。「俺もたかが4、50回の経験だ」って齊藤さんはおっしゃるけど、齊藤さんはどんな年でも一定の品質の米を一定の量とれる。助言もいただいてるのに、わたしたちはまだまだです。
俺は「今年はとれんかったな」なんてしとったら、生きていかれんかったから(笑)。
スタッフさんそれぞれの感性もあるし、勘所がなかなかつかめんこともあると思う。あぐりいといがわから「指導料」でももらってりゃ、もうちょっとね(笑)。
まぁ、冗談ともかく。スタッフのみなさん、いつもよくやってくれとる。素直なんだわ。人数増えても年々、チームワーク良うなってるしね。これからも、手伝えることあったら遠慮なしに言うてほしい。
――その言葉が本当に心強いです。これからも、指導をお願いします。
最後に、あぐりいといがわのスタッフに伝えたいことはありますか?
米つくる上で大切にしてほしいのは「心」。心だけは間違われん。心が入ってない米なんか、誰も相手にせんよって。
俺の「心」は、とにかく安心・安全へのこだわり。「安心・安全な食を子や孫へ」を、一生通すって決めたけん。押し付けたくはないけど、あぐりいといがわさんにも「安心・安全」を大事に、市野々で永く農業続けてもらえたらうれしいね。
編集後記
今回、一番印象に残ったのは「心だけは間違われん」という言葉。安心・安全・美味しさはもとより、どんな思いで米づくりをするのかという「志」があれば、必ずお客様の心に届く。そんなエールをいただいた気がしました。
そして「いのちとこの地をおいしくはぐくむ」を体現されてきた齊藤さんの教えを受け継ぎ、子や孫の代、そのずっと先まで、米づくりを通して市野々を残していこう。と改めて決意しました。